戒壇建立の地について
【顕正会のいう戒壇論】(冨士139号)
「事の戒壇に就き、時に当って重要なる次の四つの義を拝す。即ち、
一、事の戒壇は 事の広宣流布の暁を待って立てられる。
一、事の戒壇は 国立戒壇である。
一、事の戒壇は 本化聖天子の発願に依る。
一、事の戒壇は 天母山に立つべし。
されば法義上に於ては以上の四義、それに猊下の仰せと学会の自語相違とを加えて都合六箇、
これを以て、正本堂が事の戒壇ならざることを以下申し述べんとするものである」
あらためて紹介するまでもなかったと思いますが、上記の内容が現在顕正会でたてている戒壇論だと思います。
ここに、戒壇建立の地は大石寺ではなく「天母山」とあるように、顕正会では「天母山」に戒壇を建立したいようです。
【顕正会のいう天母山戒壇説の根拠】
天母山戒壇説を唱える顕正会の主張の根拠として、一番古い文献としては左京日教の『』類聚翰集私』があります。
「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」
と、ここに「天母山」ではありませんが、「天生原」が記されています。
その後、要法寺の日辰『御書抄』において、
「富士山の西南に当たりて山名は天生山と号す此の上に於本門寺の本堂御影堂を建立し岩本坂に於て二王門を立て六万坊を建立し玉ふべき時彼山於戒壇院を建立して…」
と記されています。ここで天生山の名がでてきますが、そもそも日辰自体が像仏論者であり、本門戒壇の大御本尊中心の戒壇論とは異質の主張といえます。
さらに要法寺日辰の説から約140年後、日寛上人は『報恩抄文段』に、
「次に事の戒壇と者即富士山天生原に戒壇堂を建立する也」
と御著述あそばされています。
天生原は日寛上人以後たびたびでてきますが、日寛上人の前後においては、御書や文献等、日辰の『御書抄』をはじめ要法寺の文献書籍を使っていた影響があります。
このように「天生原」という言葉がたびたびでてくる背景について、第29世・日東上人は、
「順縁広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に二王門を建つ等なり、尤も辰抄の如きなり」
と天生原戒壇説はもともと日辰の主張であることを明確にされています。
もっとも顕正会はそれらの文献よりも、日興上人の言として「大坊棟札」の
「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」
と記されているものを、天生原の初見であると主張しています。
しかし、この「大坊棟札」が後世の偽作であることは、日亨上人がつぎのように御指南されています。
「此小本尊ヲ摸刻(薄肉彫)シテ薄キ松板ニ裏ニ御家流ノ稍(やや)豊ナル風ニテ薬研彫(やげんぼり)ニセルモ文句ハ全ク棟札ノ例ニアラス。又表面ノ本尊モ略之本尊式ナルノミニテ、又棟札ノ意味ナシ。唯頭ヲ∧ニ切リテ縁ヲツケタルコトノミ棟札ラシ。石田博士モ予ト同意見ナリ。徳川時代ノモノ(日亨上人御筆記)」
と、記されています。このようにこの棟札について、日亨上人は徳川時代のものと判断されています。
つまり、形だけは棟札に似ているけれども、本尊も記される文句も、棟札の意味がなく、江戸時代の偽作であると、仏教考古学者の石田茂作博士の意見を採り上げつつ断定されているのです。
つまり日興上人御筆などではなく、後世の偽作であるということです。
日達上人も昭和四十五年六月二十八日の、「天生原・天生山・六万坊の名称と本宗の関係についての一考察」との御講義において綿密な考証を加えられ、「大坊棟札」が偽作であることを論証されています。浅井氏が日達上人を悪し様に罵り、血脈を否定しだした由縁はここにあるのです。日達上人の御著述は、詳しくは大日蓮昭和四十五年九月号に掲載されていますが、今は要点のみを列記します。
①丑寅勤行についての記述が『日興跡条々事』よりも四十年も前にあるのはおかしい
②日興上人の御署名の「興」の字体がおかしい
③日興上人から日目上人に対する文句なのに、「日興日目等」とあるのはおかしい。「日目」だけでよい
④「丑寅」を「丑とら」と書くのは徳川時代の特徴である
⑤「当国」との記述も信用できない
⑥棟札の日付が大石寺建立の半年後(正応四年三月十二日)になっている
⑦南条時光の「領主南条修理太夫」という名称はおかしい。日量上人の文政六年(一八二三)の『大石寺明細誌』に出てくるから徳川中期以後のものであろう
⑧三十三歳の時光に「法号大行」というのは時期が早すぎる
⑨「寄付」とあるが、鎌倉時代は「寄進」を使う
⑩日亨上人も疑っておられて、徳川時代のものと判断されている
と、十の観点から大坊棟札を徳川中期以後のものと判断され、大坊棟札の「天母原」云々との記述が、本門戒壇の建立の地を『天母原』とすることの根拠にならないことを論証されて、顕正会の邪説を破折されています。
しかし、顕正会ではこの論証では納得できないようで、
○ 顕正新聞 平成元年一月二十五日号
「日寛上人以後の「天生原」説は要法寺日辰の影響』と云って片づけた以上、細井管長にとって、絶対にあってはならないのが、宗門上代の文証である。 そこで細井管長は「当国天母原に於て・・・」と記されている日興上人の「大坊棟札」を〝後世の偽作〟と云い放った。その理由を十ほど挙げているが、そのすべては例によってズサン極まる推量にすぎない。」
などと、いつまでも同じような主張をくり返している。
「大坊棟札」が本物か?偽物か?宗門がどれだけ説明しても、顕正会ではその主張をまげないのでしょう。
しかし、次の資料を見てください。
○ 『冨士』 昭和39年9月号23頁
「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヵ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。
かくて、日興上人は弘安二年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場として地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始りである。」
いかがでしょうか?「冨士」はまぎれもなく顕正会(当時の妙信講)が出版した機関誌なのはご存じだと思います。
現在、天母山を戒壇建立の地と主張する顕正会も、かつては大石寺が戒壇建立の地であることは分かっていたようですね。
当時、正本堂と創価学会に難癖を付けたいがために突然主張しだしたことです。
分かっていながら天母山を主張するのは、反対せんがための反対であり、本当に取るに足らない議論です。
【正本堂建立の土地に対する疑難】
浅井氏は昭和45年3月に『正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う』と題した文書を宗務院に送附しています。
このことは顕正会でも「第一次諌暁」というくらいですからご存じのことと思いますが、内容は読んだことがあるでしょうか?
その内容の中で、正本堂建立の地について次のように述べています。
「しかるに、いま事の戒壇とて、大石寺御堂裏地が掘り返されている。この地は曾つて一般信徒の広大なる墓地である。「霊山浄土に似たらん最勝の地に」と御遺命遊ばした戒壇が、何故に不浄の墓所を掘り返してまで無理に立てられねばならぬのか。凡夫の臭骨に穢れた土地が何故恐れ多くも大御本尊の御座所に選ばれねばならぬのか。道理を無視した強引の通る筈はない。」
気になるところはありませんか?「凡夫の臭骨に穢れた土地」との記述、遺骨を「臭骨」と呼ぶ時点で仏教を信仰する者としても世間的にも大きな問題があります。
百歩譲って仮にも日蓮正宗の総本山である大石寺の墓地です。信仰者としての先達の遺骨が埋葬される場所に対してあんまりな言い草ではないでしょうか。
顕正会では浅井氏が御書の編纂をするといいながらすでに30年以上が経過していながら、(昭和60年2月25日・4月25日の顕正新聞を参照)いまだに完成していないようですので、顕正会員の皆さんは浅井氏の指導以外では御書を拝する機会がないと思いますので、あえて御書の御文を拝させていただきます。
『御講聞書』(平成新編日蓮大聖人御書1823~1824ページ)
「耆闍崛山とは霊鷲山なり。霊とは三世の諸仏の心法なり。必ず此の山に仏心を留め玉ふ。鷲とは鳥なり。此の山の南に当たって尸陀林と云ふ林あり、死人を捨つる所なり。鷲、此の屍を取り食らふて此の山に住むなり。さて霊鷲山とは云ふなり。所詮今経の心は迷悟一体と談ず。霊と云ふは法華経なり。三世の諸仏の心法にして悟りなり。鷲と云ふは畜生にして迷ひなり。迷悟不二と開く中道即法性の山なり。耆闍崛山中と云ふは、迷悟不二・三諦一諦・中道第一義空の内証なり。されば法華経を行ずる日蓮が弟子・檀那等の住所は、如何なる山野なりとも霊鷲山なり。行者豈釈迦如来に非ずや。日本国は耆闍崛山、日蓮等の類は釈迦如来なるべし。総じて一乗南無妙法蓮華経を修行せん処は、如何なる所なりとも常寂光の都・霊鷲山なるべし。」
よく拝読ください。浅井氏の「凡夫の臭骨に穢れた土地」という思想がどれだけ浅はかで下劣であるかわかります。
それでも穢れた土地だというのであれば、「天母山」はどうなのでしょうか?
天母山に行ったことがありますか?実際に行ってみれば最勝の地ではないことはすぐにわかります。
天母山の山頂にどんな施設があるか知っていますか?
・市営の火葬場
・「天母の湯」という温泉施設
・清掃センター(つまりゴミ処理場)
これらの施設は悪いものではありませんが、浅井氏にしてみれば、臭骨どころか、垢を洗い流すお風呂にゴミ処理施設など、もってのほかなのではないでしょうか。
さらに山頂には「天母山法華道場」という邪宗の宗教施設さえあります。
顕正会の皆さんは「戒壇建立の地」としてふさわしいという天母山に自ら足を運んだことはありますか?
青森からでは遠いですが、本門戒壇の大御本尊様を御安置するという土地でしょう。自分で確認もせずに簡単に建立するなどと言うのではなく、一度自分自身の目で確かめて来てください。
きっと大きな違和感を覚えることでしょう。「天母山に六万坊を建立し…」なとどいうのは不可能です。