top of page

(H27,10,12西九州布教区広布推進会より・『大白法』平成27年11月1日号 掲載)
 佐賀県覚源寺支部 H・Yさん(大白法誌面上では本名で記載されていますが、HP転載に当たってイニシャルにさせて頂きました)

 顕正会の驚きの実態 私も同罪と深く懺悔

​  今度こそ本物の信心ができる

 

 私は元顕正会員です。平成25年に脱会しました。
 顕正会員だった頃の私は、この顕正会だけが正しい団体だと信じながらも、どこか絶えず疑問が涌いていました。

 しかしそのたびに先輩から、「それはあなたの心が濁っているからだ」などと言われ、私自身もそう思い込み、早く変わりたいと祈り、多くの方の折伏にも、言われるままに行ってきました。
 しかし生活はと言えば、逆行するかのように家族もばらばらになり、活動のために生活費もままならなくなりましたが、それでも折伏・集会・語り合い、と一生懸命に活動をしていました。
 ある日、先輩である総班長のKさんに、以前私がお世話になっていた覚源寺に「顕正新聞を持って行こう」と誘われ、もう一人を加え三人で行くことになりました。

 実際とかけ離れた嘘の活動報告

 御住職・小林信存御尊師に新聞をひと通り読んでお聞かせしたところで、気の毒に思われたのか、「顕正会が大御本尊を大事に思っていることは判りました。しかし奉安堂は戒壇の大御本尊様を御護りするにふさわしい堅牢な建物ですので心配無用です」とキッパリ言われ、平行線の言い合いの末、帰るように促されました。
 その足で、Kさんと私で法華講員のSさんのお宅に折伏に行きました。その方は80歳を超え、認知症を患ってみえた(いらした)ので、私たちのことを法華講の方と間違えて家に上げてくださり、「大聖人様はすごいですね」と何度も嬉しそうに語っていました。
 するとKさんが、「では一緒に勤行しましょう」と促し、何と今まで散々悪口を言っていた日達上人御書写の御本尊様の御前で勤行が始まりました。何度もKさんに「いいのですか」と訪ねましたが、Kさんは「いいのよ。大丈夫だから」を繰り返すばかりでした。
 そして数日後に行われた婦人部集会でのKさんの活動報告に、私は耳を疑いました。
 御住職様の発言は「顕正会は正しい」にすり替わり、Sさんとの勤行は「家族一同涙の入会勤行が叶いました」という作り話。涙ながらに発表するKさんの姿を目の当たりにして、「やっぱり違った。私は何てことをしたのか」と後悔しました。そして、私も同罪だと心から悔やみました。
 それからは、「顕正会は本当に正しいのですか。教えてください」と、本門戒壇の大御本尊様をしっかり思い浮かべて祈りました。もう涌き出てくる疑問に目をつむり耳を塞いでいくことは止めようと気持ちが固まり、御住職様や法華講の方のお話を聞き、御書を開きました。すると、次々と浅井昭衛の謀りが判っていきました。

 

 もう迷わない

 

 まず、東日本大震災以降に浅井昭衛は原子力発電反対の指導をしていましたが、約二十年前には全く逆で原発推進の指導をしていた事実を知り、驚愕しました。

 さらには、次々と当たることのない予言を繰り返して会員を誑惑しますが、外れた後は知らぬ存ぜぬです。

 また、昔は「学会八百万世帯を救う」と言っていたのに、現在、創価学会の『ニセ本尊』には一切触れません。自分たちも日布上人の大幅の御形木御本尊なるニセ本尊を作成しているからだと思います。

 浅井昭衛が二枚舌で嘘つきなことが判ると、彼らが言っている国立戒壇も、宗門から講中解散処分にされた理由も、嘘だと確信するようになりました。
 また、顕正会員では御書を持っている人はほとんどいません。浅井昭衛の講義で初めて大聖人様の御言葉を知ります。しかし、それは浅井の都合のいいように、御書を切り文にした講義となっています。
 例えば浅井昭衛は、よく『松野殿御返事』を講義していましたが、
 「然るに在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか」(御書一〇五一㌻)
との、御法主上人猊下、御僧侶への尊信を表わした部分は、特に顕正会にとって都合のいいように講義するばかりでした。
 『日興遺誡置文』には、
 「当門流に於ては御抄を心肝に染め」(同一八八四㌻)
とあります。
 それなのに何故、浅井は会員に大聖人様の御言葉を正しく教えないのか。他の御文も拝すれば拝するほど、あまりの無惨さに気が遠くなり、ひどい謀りに悔し涙が止まりませんでした。
 さらに顕正会の組織に目を落とせば、疑問を持って上に質問をすると、その人とは話さないようにと口コミで伝達されます。組織に横線の関係がない理由も、互いに疑問点を話し合ったりさせないためだろうと思います。

 また、顕正会の役員の多くが、独善的で嘘つきです。これは浅井昭衛を尊敬するが故に、その性格が移ってしまうのだと思います。浅井昭衛こそ大謗法者だと思います。

 

 晴れて法華講員に

 

 かく言う私も、顕正会の時は強ばった顔をして攻撃的になっていました。「大聖人様に弓を引く大罪を犯してしまった。何て恐ろしいことをしてしまったのか」と、夜も眠れない日々を過ごしました。
 さらにいろいろと調べていくうちに、長野市にある妙相寺の法華講員である樋田さんと縁することができ、折伏を受け、平成二十五年、私は妙相寺支部の法華講員になることができました。
 私が妙相寺支部に所属している間、元顕正会の人を中心に、地元のお寺に所属された方も含めて二十名ほどの折伏が成就いたしました。
一生懸命に妙相寺支部講員として信心活動をする中、今年の三月に父から母が危篤状態だと連絡がありました。
 父が、「これから覚源寺に相談に行こう」と言いました。母が平成八年に覚源寺で入信していたからです。
 父と一緒に行って、御住職様に母の葬儀のことをご相談しました。すると御住職様は、「お母様は覚源寺の法華講員です。何も心配はいりせんよ」とおっしゃいました。そこで父が、「妻のこともありますし、これからのこともありますから、私もこのお寺でお世話になろうと思っています」と御住職様に申し上げました。
 私は、その言葉を聞いてびっくりしました。なぜなら、父は信心に反対していたからです。以前、家庭訪問してくださった法華講員の方の電話では、父は「妻が亡くなったときは日蓮正宗で葬儀を出すが、私は浄土真宗だから、そっちにお願いするつもりだ」と言っていたそうです。
 父の言葉を聞いた瞬間、私は涙がこぼれました。この後、父は御授戒を受けました。

母の成仏と主人の入信

 母はそれから五月二十四日まで延命し、寿命を全うしました。亡くなる前日には、妹一家全員が勧誡・御授戒を受けることができました。
 御住職様には、枕経から導師御本尊様を母のそばに御奉掲くださり、葬儀では懇ろに引導・御法話をいただきました。さらには火葬場・骨上げまでずっと導師をお勤めくださり、日蓮正宗の荘厳な葬儀に感動しました。信心をしていない主人も、「すばらしい葬儀だ」と言ってくれました。
 父の話に戻りますが、葬儀の前夜は、父は母の横で過ごしました。その時のことを後日の座談会で、「長い間寝たきりで病気をしていた妻の姿が、見る見る生前の美しい姿になった。この信心のすばらしさを実感した」と言っていました。
 葬儀後、母の菩提寺で先祖供養をしたいと思い妙相寺の御住職・落合尊福御尊師にご相談した結果、かつて入信させた息子・娘と共に覚源寺に移籍することになりました。
 移籍が済んでから、「すばらしい葬儀だ」と言ってくれた主人を折伏しました。創価学会、顕正会と私が振り回してしまった主人は、今回は自分から勧誡を受けてくれました。すべて母や御住職様、法華講の方々のお陰と感謝しています。そして、晴れて家族全員、覚源寺で信心ができるようになりました。

 

 寺院参詣の有り許さ 唱題、折伏の喜び

 

 遠隔地の寺院から移籍して覚源寺の所属となってからは、お寺によく参詣するようになりました。寺院に参詣して有り難いと思えることは、お寺の常住御本尊様にお詣りでき、すぐに直接、御住職様に御指導をいただけることです。
 そして、その御本尊様がいらっしゃるお寺の草むしりとか掃除、献膳下げなどの、身の供養をさせていただけることが何よりの喜びです。
 顕正会では、「法華講は年寄りばかりで、折伏をしていない」と悪口を聞かされていましたが、実際には信心に熱心な方も多く、日々激励をいただいています。その激励のお陰で、仕事で忙しい中でもお寺に行くことの大切さを忘れずに過ごすことができます。今年七月の、御法主日如上人猊下が総本山で唱題なさるのに合わせてお寺でも朝八時から行われた一カ月間の唱題行にも、皆さんの激励のお陰で毎日参加できました。
 そして折伏も、覚源寺に所属してから十五人の方に声をかけ、そのうち七人の方には、成就には至りませんが、膝を付き合わせて折伏させていただくことができました。
 覚源寺支部講員になってから、まだ主人以外の折伏は成就していませんが、御法主上人猊下から戴いた御命題に、少しでも力になれるよう精進してまいります。

 

顕正会員の皆さん、早く目を覚まして、正しく日蓮大聖人の仏法をまもる日蓮正宗寺院に来て下さい。

bottom of page